戦国では灰釉が主流で鉛釉もあったが、出土例は極めて少ない。それが漢代になると急速に普及し、緑釉(酸化銅)・褐釉(酸化鉄)の二種類が盛んに使われる(ギャラリーの酒器が緑釉)。これらは低温度(800度ほど)で焼かれ、強度的にはあまり強くなく、主な用途は明器であったらしい。ただし出土していないだけかもしれないが。当時の上層は日常的な食器としては主に漆器を祭祀用に青銅器を使い、下層は灰釉の陶器を主に使っていたようである。所がこの鉛釉は漢代だけの流行で、次の魏になると急速に衰退した。 この時代の陶磁器は基本的に青銅器の代用品であり、形もまた青銅器を模したものが多かった。しかしそういった伝統に縛られないキャッシングの窯ではそれまでには見られない双耳壷などが登場しており、また南のベトナムではわずかながら青磁が出土している。 服飾。 [37] 漢服・ZH:中国服なども参照。 漢代において周代より続く深衣は男性はあまり着なくなった。深衣とは十二単のように袍という衣を何枚も重ねて着るものである。しかし活動的な漢帝国にはこれは似合わず、重ね着せずに袍が一枚・下着が一枚というのが一般的になった。 身分の高い男性は「長袍」と呼ばれる膝くらいまである上着と「」という袴と「禅」という下着(上下が繋がっている)を着る。長袍はすその形で曲裾と直裾に分かれる。元は曲裾が正式な礼服であり、直裾は公式の場では着てはいけなかった。しかし次第に曲裾は廃れていき、直裾が主流となった。禅は外にいるときは下着であるが、家にいるときは禅のみですごすこともあったらしい。全体的に布を多く使っており、ゆったりとあまりきつくは締め付けないように作られている。そして大事なのが冠である。冠には非常に細かい形式があり、その形によって役職や地位などが分かるようにされていた。足に履くものは、祭祀の際に履く「」・出仕する際に履く「履」・家で履く「」・外出の際に履く「屐」がある。や履など大事なものは絹、は葛や麻で編まれた。屐は木で作られており、歯が二枚ある下駄のような形をしている。また佩綬(腰に下げる飾り紐)が重んじられ、玉や真珠で飾られた。恋愛の告白には佩綬を送ることがよく行われていたようである。 労働者たちは労働しやすいように短い袍と長いを着て、労働の時には足のすそを上に巻き上げる。士大夫は冠であるが、庶民の男性は頭巾をかぶる(士大夫も外国為替証拠金取引 では頭巾をかぶる)。靴は履かず素足が基本である。 一方、女性は前代から変わらず深衣が一般的であった。上下一体型の袿衣・禅衣と腰までの長さの「襦」・スカートである「裙」を組み合わせる場合とがある。髪形には非常に趣向が凝らされ、その髪飾りも鼈甲や玉や金などを使われた美しいものであった。 新(しん、8年 - 23年)とは中国の王朝。前漢の外戚であった王莽が外国為替証拠金取引の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てた。成帝の時、王莽は新都侯(新都は荊州南陽郡に在る)に封じられたことにより国号を新とした。 周の時代を理想とした政策を行なったが、その理想主義・懐古主義的な政策は当時の実情に合っておらず、国内は混乱。また、匈奴や高句麗に対して高圧的な態度を取ったためにこれらの離反を招くなど、その統治は失敗に終わり、国内には不満をもつものが多くなった。 具体的な政策としては、古代の名称にあわせた地名や役職名の頻繁な改名、小作農民のための農地の国有化、奴隷売買の禁止、高利貸しに対し、国家による安い金利での融資などを行った。また新貨幣を鋳造し(制度が複雑で経済が混乱したあげく、私銭鋳造を認めるまでになった)、塩や鉄を国がキャッシングとするなどの政策があったが、経済政策では地主や高利貸し等から、貨幣鋳造や塩鉄の統制では民衆から、大きく不満と反対が起きた。 遠征も繰り返しており、匈奴には30万人、西南の句町国には20万人の兵を派遣し、後者では6〜7割が餓死・疫病で死んだとされる。 やがて赤眉・緑林の乱が起こり、更始帝の軍により長安を落とされて王莽は殺され、一代限りで滅んだ。 新からキャッシング への移り変わりは新末後漢初を参照。 後漢(ごかん、25年 - 220年)は中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢と紛らわしいので、現在では東漢と言うことが多くなってきた(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。 目次 [非表示] 1 歴史 1.1 特徴 2 政治 2.1 官制 2.2 外戚と宦官 3 文化 3.1 思想 3.2 科学技術 3.3 文学 3.4 彫刻 4 経済 4.1 荘園 5 国際関係 5.1 北方・西域 5.2 朝鮮・日本 6 後漢の歴代皇帝 7 関連項目 8 外部リンク 歴史 [編集] 前漢は王莽により簒奪されたが、王莽の政治は周代を模して現実からは遊離していたために、国内は混乱し外交でも失敗し、故に外征を行わざる得なくなり、それも失敗し、収拾のつかない状態になった。この状況で、現在の山東省で呂母の乱が勃発したのを皮切りに全国で反乱が起こり、最終的に南陽(現在の河南省南陽市)の皇族傍系の地方豪族である光武帝により平定された。(新から後漢への移り変わりは新末後漢初を参照) 銅馬や赤眉など多くの民衆叛乱を吸収して自らの勢力とした光武帝は、民衆は疲弊し、それが兵糧を給じる軍兵は相対的に多いため、材官、騎士、都尉などの地方の駐在軍を廃止し、徴兵制から少数の傭兵制へと切り換えた。また本来は中継ぎが役目である尚書を使い、三公ら大臣の権力を奪い皇帝へと集中させた。しかし後に皇帝が若くして亡くなると権力は真空となり、皇帝の権力を利用できる宦官と外戚による権力争い、それに儒教の振興による地方豪族出身の知識人官僚の反抗が展開された。政局の混乱に耐えかねて民衆叛乱が頻発するようになっても、外国為替 の欠如が裏目に出て為すすべがなかった。 光武帝と第2代明帝を除いた全ての皇帝が20歳未満で即位しており、中には生後100日で即位した皇帝もいた。このような若い皇帝に代わって政治を取っていたのは豪族、特に外戚であった。第4代和帝以降から、外戚は権勢を振るうことになった。宦官の協力を得た第11代桓帝が、跋扈将軍と揶揄される程専横を極めた外戚梁冀を誅殺してからは完全に宦官が権力を握るようになった。宦官に対抗した官僚もいたが、逆に党錮の禁に遭い後漢の衰退を止めることは出来なかった。 外戚、宦官を問わずにこの時期の政治は極端な外国為替証拠金取引であり、官僚が出世するには上に賄賂を贈ることが一番の早道だった。その賄賂の出所は民衆からの搾取であり、当然の結果として反乱が続発した。その中でも最たる物が184年の張角を首領とした黄巾党の乱であり、全国に反乱は飛び火し、この時点で後漢は事実上、統治機能を喪失した。 その後は、曹操や劉備らが争う動乱の時代に入る。後漢は一応存在はしていたが、最後の皇帝献帝は曹操の傀儡状態であり、権力は無いも同然であった。220年、曹操の子曹丕により、献帝は禅譲を強要されて、後漢は滅びた。献帝が殺害されたと誤った伝聞を受け、劉備が皇帝に即位し、以降三国時代に入る。 献帝(劉協)は魏によって山陽公に封じられ、その死後は孫の劉康が跡を継いだ。魏に取って代わった西晋でもこの待遇は引き継がれたが、劉康の孫である劉秋の代に、永嘉の乱で漢(匈奴)により殺害され、直系の子孫は絶えた。 魏では漢王朝の宗室は禁錮(公職追放)の扱いを受けていたが、西晋成立後の266年解除された。 2世紀の後漢 特徴 [編集] 幼帝を仰ぐことによって皇太后が力を持ち、外戚も盛んになり外戚による専断が幾度も見られた。また末期には、外戚を廃することに成功した宦官がやはり幼帝を傀儡に仕立て上げ政治を壟断した。宦官が増えたのは、皇后府が力を持ったのが原因であるが、もとを正せば、宦官を重用した和帝と短命の血筋を有した劉家がすべての原因であると言える。 この王朝の皇帝は極めて短命である。幾人も30代で崩御しており、若くして崩御することから後嗣(跡継ぎ)を残さずに亡くなる皇帝も少なくなかった。このため幼少の皇帝が続出し、即位時に20歳を越えていた皇帝は初代光武帝と第2代明帝の2人だけであり、15歳を越えていた者も章帝と少帝弁の2人だけであった。ちなみに、最も長寿だったのは初代光武帝(享年63)である。 政治 [編集] 後漢の政治体制は基本的に前漢から引き継いでいるので前漢の項も参照すること。 前漢から後漢に推移する時の騒乱により、中国全体の人口は激減していた。前漢末期の2年の記録が人口5767万だったものが、後漢初めの57年には2100万にまで激減している。