その後は老荘など道家の他の派と合流し、その姿を消したらしい。 神秘思想。 [26] 前漢は儒教の伸張が目立つ時代であるが、同時に神秘思想もまた伸張していた。 例えば武帝の傾倒した神仙思想や当時流行した巫蠱など。そして神秘思想の中でも高度に理論化され、後世にも強い影響を与えたものとして陰陽五行説・天人相関説・災異説がある。 陰陽五行説はこの世の全ての事象は木火土金水の五行に分類され(例えば方角は木→東・火→南・土→中央・金→西・水→北となる。)、それが循環することでこの世が成り立っているという考えである。天人相関説・災異説は万物の総覧者たる天と人間は連関しあっておりもし人間が誤った行いをした場合、例えば時の皇帝が暴政を行うと、天はこれに対して天災を起こすという考えである。 五行に基づいて漢はどれに当てはまるかが前漢を通じて何度か話し合われており、紀元前104年に一旦漢は土徳の王朝であるとされた。秦は水徳の王朝であるとされており、その秦を克した[27]ので土徳とされたのである。しかし漢は火徳の王朝であるとの主張が哀帝期に劉向・劉親子によってなされた。劉によれば周は木徳であり、そこから生まれた漢は火徳であるとする[28]。これが王莽によって是認され、以後漢は火徳の王朝とされた。後漢末に起きた黄巾の乱や漢から禅譲を受けたFX の最初の元号が黄初であることは黄色が外為の次に来る土徳[29]の色だからである。 天人相関説・災異説は董仲舒が唱えたものであり、この時代の儒教は多分にこういった神秘思想を含むものであった。董仲舒以降になるとこの神秘性は更に強くなり、FXまでもこれにより予言できるとされた。これを讖緯という。 讖とは自然現象が何らかのメッセージを残すことであり、例えば昭帝時代に葉っぱの虫食い跡が文字になっており「公孫病已立」と読めたという。これは後に宣帝(病已は宣帝の諱)が皇帝になることを示していたとされた。緯とは経書に対しての緯書のことである。聖人の教えを書き記した経書であるが、経書はその大綱を示したものであり、現実の事柄に付いては緯書に記されているとされた。経はたていと・緯はよこいとのことで、たていととよこいとが揃って初めて布が出来上がるように緯書があってこそ聖人の教えが理解できるとされた。しかしその実態はFXの人による偽作であると考えられる。なおこの讖緯のことを記した書物全てをひっくるめて緯書と呼ぶ場合もある。 前漢末にはこの緯書が大流行し、緯書を学ばないものは学界で相手にされないような状態になった。この状況を最大限に利用したのが王莽である。例えばある者が井戸をさらった所、その中から石が出てきてそこには「安漢公莽に告ぐ、皇帝と為れ。」と書かれていたと王莽に報告され、これを受けて仮皇帝となった。もちろんこの石自体が日経225 の仕込んだことであると思われる。前述した漢を火徳の王朝としたことも王莽が自身を舜の子孫であると吹聴していたことに繋がっている[30]。 これらの神秘思想は前漢が滅び、後漢が建ってからはますます広まっていく。 仏教。仏教は、前漢末の紀元前後に西域より伝来した。大乗仏教に属する系統で、後漢以後、中国各地で受容された。 文学。 歴史。 [12] 歴史の分野で真っ先に取り上げるべきは何と言っても司馬遷の『史記』である。二十四史の第一であり、後世の歴史家に与えた影響も非常に大きい。『史記』は最初は司馬遷の個人の著書として書かれたものであるから、後の欽定史書と違い自由に外為の思想が表われており、歴史書としてだけではなく、文学作品としても高い評価がある。 『史記』以外では陸賈『楚漢春秋』、劉向『戦国策』『新序』『説苑』などが挙げられる。 漢詩。 [31] 前漢代には漢詩(例えば杜甫・日経225のような)はまだ確立した存在ではなく、その基となる二つの流れが存在していた。 一つは『詩経』を源流とする歌謡の流れである。歌謡という言葉が示すように『詩経』に収められている詩は元々は音楽や舞踏と共に演奏されるものであった。この流れを受けて、武帝は楽府(がくふ)という部署を作り、李延年をその主管とし、民間の歌謡および西域からもたらされた音楽を収集し、新しい音楽の流れを作り出した。このようなものを楽府体(がふたい)と呼ぶ[32]。楽府はその詩の種類によって7・8種類の楽器を使う。管楽器では(大型の笙。zh:)・笙・笛・簫、弦楽器では瑟(大型の琴。zh:瑟)・琴・箜篌(ハープに似た楽器。zh:箜篌)・琵琶などである。楽府体の大きな特徴は五言詩であること、また賦に比べて表現の上では質素であり、民間の歌謡を淵源としていることから民衆の素朴な感情が出ていることなどである。これの代表としては李延年の「歌詩」が挙げられる。 もう一つは『楚辞』を源流とする賦の流れである。戦国から前漢初期には外為 の七言詩である「楚声の歌」と呼ばれる詩が盛んに謡われた。例えば高祖の「大風の歌」、項羽の「垓下の歌」などである。それが武帝期の司馬相如に至り大成され、賦が成立する。賦の特徴としてはまず『楚辞』を引き継いで七言であること、そしてある事柄に付いて描写に描写を重ね美しい言葉と対句で埋め尽くされたある種過剰なまでの表現である。司馬相如以外としては賈誼や武帝が挙げられる。司馬相如の代表作として「上林賦」が挙げられる。 芸術。前漢は既に2千年も前のことであり、その間に幾多の戦乱が起き、漢代の美術品は地上世界にはほとんど残らなかった。現在残る漢代の美術品はほとんどが地下世界、墳墓の中や窯跡など土の中に埋まっていたものである。このようなものを土中古という。 墳墓。 [33] 漢代では埋葬された死者は死後においてもそのまま墓中で生活を続けると考えられていた。始皇帝の兵馬俑も始皇帝が死後の世界で使うための兵士だった。これと同じように漢代の墳墓からは死者が使うための食器・家具などが大量に出てくる。日経225の墳墓などは実物そのものを入れる場合もあったが、それであると費用が莫大になってしまうために実際のものを模した土器を代わりに入れた。これを明器という。明器は非常にバリエーションに富み、食器・家具・家屋、ニワトリ・イヌなどの動物・身の回りの世話をするための奴隷・更には楽師や芸人といったものまであり、当時の生活の様子を物語ってくれる。もちろん本物の青銅器・陶磁器・漆器も大量に出土している。そのほかの副葬品として竹簡・木簡類が見つかることがあり、漢代の貴重な一次史料となっている。 漢代の出土物として特筆すべきは、一つは馬王堆漢墓にて見つかった生けるがごとき女性の死体である。この女性は長沙国の丞相をしていた利蒼という人の妻で、発見されたときには頭髪も皮膚もきちんと残っていた。しかも皮膚には弾力が残されており、指で押すと元に戻ったという。 もう一つは劉勝の墓・満城漢墓などで発見されている金縷玉衣である。玉の板数千枚を金の糸で縫い上げ、これをもって死体を蓋っている。地位によって銀縷・銅縷の三段階があり、絹糸で縫う絲縷もある。玉には腐敗から死体を守る効果があると信じられていた。『西京雑記』にはこの金縷玉衣に付いて書かれていたのだが、莫大な費用がかかる金縷玉衣は実際に見つかるまでは誇張されたものであると思われていた[34] 絵画。 [35] 墳墓の壁には壁画が描かれていることが多く、神話や歴史故事・戦争あるいは被葬者の人生などその題材は多岐にわたる。また壁の装飾に彫刻を施している場合も多いが、立体性はほとんどなく、これは彫刻というよりも絵画の類と見るべきものである。このようなものを画像石と呼ぶ。宮殿の装飾などには非常に大規模な彫刻が施されたとの記録があるが、現存していない。 壁画以外に特筆すべきは馬王堆漢墓より発見された『彩絵帛画』である。上部は天上世界であり右の太陽の中に日烏が月の中にヒキガエル(の妻の嫦娥が変化した姿)がいる。太陽と月の間には女がいる。中央部は現世であり被葬者の利蒼の妻が次女を引き連れている。下部は地底世界であり大地を支える巨人や亀などが描かれている。 陶磁器。 [36] この時代の陶磁器は基本的に戦国からの様式を引き継ぐものであり、古代美術の終点が漢であると考えられている。この後の三国時代・魏晋南北朝時代には新たな波が生まれるが、その端緒もこの時代に見られる。