これらの勢力を抑えるために前漢では度々抑商政策を取っており、#税制で述べた税制上での差別や#身分制に置ける差別政策を行ったが、あまり効果はなかった。CFDは抑商政策の一環として穀物で税を納めた者に爵位を与えると言う政策を提案した。それまでの税は銭で収めることになっていたが、農民達の収入は当然穀物であり、徴税期に一斉に農民が穀物を売りに走ることで商人に足元を見られて買い叩かれていたのである。この策により商人が積極的に穀物を買い求めて、農民に金銭が多く入り、窮迫することを防ごうとしたのである。最高では18位の高位まで得ることが出来たので、この政策は効果を上げた。 抑商政策で最も特筆すべきは武帝期の均輸・平準法である。これらの政策は武帝の元で経済的手腕を振るった日経225が実施したものである。くりっく365 は全国の物価を調査して安い所の物資を買い、高い所で売り払うことで国家収入と共に物価の地域格差をなくすことを図るものである。平準法は安い時期に物資を買い込んで国庫に積んでおき、それが高騰した時に売り出して国家収入と共に物価安定を図るものである。この政策には物価の安定と共に商人が物資の取引に介在することで商人に利益を与えることを防ぐ目的がある。この政策はかなりの効果を上げ、相当額が国庫に流れ込んだ。 この武帝の抑商政策と五銖銭の発行とを契機として、以後中国の貨幣経済は衰退に向かう。それに伴い豪族たちは武帝期から後漢にかけて自らの持つCFD の中でほぼ完全な自給自足体制を作り上げた。この中には奴婢や小作人を囲い込み、周辺の郷里との関係を深めて共同体を形成していく。 遊侠。 [23] 前述したとおり、皇帝・豪族・小農民が漢の社会の主要な構成員であるが、それに加えていわばこれの埒外に存在したのが遊侠である。 遊侠は小農民の次男・三男、罪を犯して郷里にいられなくなった者、など社会から排除された境遇のものたちが集まり、勢力を築いていった。それを取りまとめた者が『史記』『漢書』の遊侠列伝に収められている朱家や劇孟といった人物たちであり、その勢力は豪族どころか中央政府すら無視し得ないものになっていた。 例えばくりっく365の乱の際に政府側の総大将であった周亜夫は劇孟に対して「もう諸侯たちが貴方を味方につけていると思ったが、そうではなかった。これで東には心配する者がいない。」と述べている。国を二分するほどの大乱において影響力を発揮できるほどの勢力があったということである。 増淵龍夫は遊侠の持つ任侠精神は前漢においては遊侠に留まらず、全ての人間関係に敷衍されており、皇帝と官僚の関係もまたこの任侠精神に基づくものだと述べている。この時代の時代精神に任侠が深く関わっていたことは間違いないであろう。『史記』『漢書』にある「遊侠列伝」と『後漢書』にある「方術列伝」「逸民列伝」はそれぞれ前漢と後漢の時代精神の違いを如実に表していると言える。 身分制度。 [12] 法の上での差別を受けていたのは奴婢と罪人であり、これに対して一般民は庶人ないし良人(良民)と呼ばれる。 奴は男奴隷・婢は女奴隷のことで、借金により身を売らざるを得なかったものなどが直接買主に売られるか、あるいは市場にてウシやウマと同じく檻に入れられて売買された。主な購入層は豪族であり、「耕はまさに奴に問うべし。織はまさに婢に訪うべし」という言葉があるように豪族の土地を耕作したり、手工業に携わるなどをしていた。また政府によって管理される官奴婢もあり、こちらは罪を犯した官吏とその家族・戦争捕虜などがその主な供給源で、国有地(官田)の耕作や土木工事などに使役されていた。奴婢は主人の財産として看做され、戸籍にも登録されず、奴婢の子供もまた奴婢とされた。 奴婢や罪人は法の上で明確に差別された存在であるが、それとは別に庶人階級の中で蔑視されていたのが商人・手工業者・医者などといった職業である。 文化。史書(『後漢書』)によれば、後漢代の西暦105年に蔡倫が樹皮やアサのぼろから紙を作り、和帝に献上したとされている。この記述より、従前は紙の発明者は蔡倫だとされたこともあった。しかし、現在では、前漢代の遺跡から紙の原型とされるものが多数見つかっている。こんにち、世界最古の紙は中国甘粛省の放馬灘(ほうばたん)から出土したものだといわれており、この紙には前漢時代の地図が書かれ、年代的には紀元前150年頃のものと推定されている。 思想。CFDの思想史を大まかに言えば、日経225 に黄老思想と刑名思想が主導権を取り、董仲舒の建言を期にくりっく365が勢力を伸ばし始め、元帝の時に完全な主導権を握り、王莽から光武帝の時代にかけて儒教国家と呼ぶべき体制が出来上がったと言える。 儒教。 [24] 始皇帝の焚書と項羽の咸陽焼き討ちにより儒教の経書は一旦そのほとんどが失われた。日経225に口述筆記による復元が行われ、さらにその後に壁の中に隠しておいたものが発見されるなどして経書が復元される。 このうちあるものは当時の書体である隷書体で書かれており、別のものは隷書体以前の書体で書かれていた。このことから前者を今文・後者を古文という。同じものを元にしているのであるから内容も基本的に同じであるが、微妙な差異があり、どちらがより正しく聖人の教えを伝えているかが論争になった。更に当時の経学は経書一つを専門的に学ぶものであり、そのためどの経書に学ぶかでこれも学派が様々に分かれることになった。一例を挙げれば『尚書』(『書経』)においては伏勝が壁に埋め込んで焚書の難を逃れたという『今文尚書』と景帝時代に孔子の旧宅の壁の中から発見されたという『古文尚書』がある。 このうち、『春秋公羊伝』を学ぶ公羊学派の立場から儒教の新しい地平を開いたといえるのが董仲舒である。董仲舒は武帝に対して天人相関説・災異説を唱え、儒教の教義を皇帝支配という漢の支配形態を正当付けるように再編した。董仲舒は武帝に対して儒家を官僚として登用すること・五経博士の設置などを建言した。[25] 五経博士とは五経である『詩経』・『書経』・『礼経』・『易経』・『春秋公羊伝』それぞれを専門に学ぶ博士のことで、のち宣帝の時に増員されて十二となっている。 しかしこのようにテキストがばらばらな状態であることは非常に不便である。そこで成帝期の劉向・劉親子により、テキストの整理が行われ、これらは一本化されることになった。現在伝わる経書はこの時に整理されたものを基にしているものが多い。 また劉向・劉親子は古文派であり、この時代に新しく発見された古文である『春秋左氏伝』・『周礼』が持て囃されるようになる。のち、『周礼』はCFD の政権樹立の際に論理的根拠として使われ、『左氏伝』は魏晋以降、三伝の中の中心的位置を占めることになる。 また前漢末期には緯書が流行を見せることになる。これに関しては#神秘思想で後述。 道家。 [24] 前述したとおり、漢初に思想界で主導権を握ったのは黄老の道と呼ばれる思想である。黄は黄帝・老は老子のことで、道家の分派の一つである。信奉者として挙げられるのが高祖の功臣の一人曹参である。曹参は斉の丞相を努めていた際に蓋公なる人物がこの黄老の道を良く体得していたのでこの言葉を聞いて斉を治めたという。その後、曹参は蕭何の跡を受けて中央の丞相となったが、蕭何の方針を遵守し、国を良く治めた。 これ以外にも景帝の母・竇太后は黄老の道を信奉していたと言い、当時の支配階層の間で黄老が主流であったことが分かる。『史記』「楽毅列伝」には曹参に至るまでの黄老の道の学統が記されており、河上丈人という人物がその初めにある。この河上丈人という人物が何者なのか、実在の人物なのかなどは全く分からない。また黄老の道がどこから始まり、どのような発展の道を辿り、漢代においてなぜそれほどに普及したか、これもほとんど分からない。