文明18年(1478年)に元服し、足利義政の偏諱を受けて政元と名乗る。管領に任じられたものの、短期間で辞職している。 クーデターによる政権奪取 。延徳元年(1489年)、将軍・義尚は六角討伐の最中、近江で陣没する。政元は次期将軍として堀越公方・足利政知の子・香厳院清晃(足利義澄)を推挙するが、日野富子の後押しの結果、足利義視の子・足利義材(のち義稙)が10代将軍に就任する。結果に不満であった政元は、やがて幕府に距離を置き始める。義材の将軍就任は、義視と畠山政長の権勢が高まることとなり、延徳3年(1491年)1月に義視が死去した後は、政長が権力を独占するようになる。明応2年(1493年)、将軍・義材は政長と共に畠山義豊討伐のため河内へ出兵する。4月、京都に滞在していた政元はクーデターを決行、香厳院清晃を第 11代将軍として擁立する(明応の政変)。この政変により、当初は政長方であった赤松政則も政元に寝返ったため、孤立無援となった政長は自害、捕らえられた義材は京都竜安寺に幽閉された。明応3年(1494年)、香厳院清晃を将軍職に就けて管領に任じられた結果、政元は将軍を事実上の傀儡にして幕政を牛耳るに至った。 諸勢力との戦い 。政変後、越中へ亡命していた義稙(義材)は、明応8年(1499年)に北陸の兵を率いて近江にまで侵攻するが、政元はこれを破り、同じく義稙に呼応した畠山尚順をも撃破する。一方、政元は生涯独身を通し、山伏信仰に凝って諸国を放浪するなどの奇行があり、幕政を混乱させることもあった。やがて実際の政務は、「内衆」とよばれた京兆家の重臣達による合議に重きが置かれるようになった。さて政元の気分屋的な傾向、そして実子が無かったことは京兆家の家督相続問題にも反映した。文亀 2年(1502年)、九条家から家督相続を条件に澄之を養子として迎えるが、文亀3年(1503年)5月、一門の阿波守護家から澄元を養子として迎えて家督相続を約束したため、政元は澄之を廃嫡する。その結果、澄之・澄元両派の対立が先鋭化するに至る。永正元年(1504年)9月、摂津守護代・薬師寺元一の謀反を鎮圧し、永正3年(1506年)に河内の畠山義英を討伐、大和へ侵攻する。永正4年(1507年)には紀伊、さらに丹後・丹波の一色義有をも侵攻するなど、自らの勢力の拡大を図った。こうして、政元は京兆家の全盛期を築き上げる。ところが、政元はこのような戦乱を嫌悪したのか、修験者として奥州で廻国修行をしたいと言い出したが、この際には家臣のインプラント の諫言によって断念させられる。永正4年(1507年)6月23日、澄之派に懐柔された警護役の竹田孫七・香西元長・薬師寺長忠によって、湯殿で行水をしていたところを襲われて殺された(インプラント)。享年42。これ以降、京兆家は内紛を重ねて急速に没落していくことになる。 人物・逸話 。生前の奇行や死後の内紛などのため、これまで後世の評価は芳しくはなかったが、近年では管領の地位を長期間にわたって保ち、なおかつ将軍の廃立すら行った政元の時代こそが細川京兆家の全盛期であったと見るのが通説となっている。 幕政を牛耳り、当時では勢力随一の大名であったことから半将軍と称された。独身を貫いたのは修験道に凝ったため、あるいは女嫌いで深く衆道(男色)を好んだからなどの諸説がある。修験道に凝って政務を放棄し、京都から離れて丹波などまで赴くことがあったため、家宰の安富元家や家臣の庄元資、インプラントらによって連れ戻されることもあったといわれる。安芸宍戸氏の出身の司箭院興仙(宍戸家俊)を修験道の師とした。諸国放浪の際、各地の守護らと会見を持っており、自派勢力拡大のための政治目的もあったとされている。政元は優れた人物と言い難い一面があるが、家臣に優れた人物が多数いたことがインプラントの全盛期を築き上げたといえる。 細川 澄元(ほそかわすみもと)は、戦国時代の武将・守護大名。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む足利氏の支流 インプラント。相伴衆の格式であった阿波 インプラント (下屋形)の出身。細川政元の養子。細川晴元の父に当たる。延徳元年(1489年)、細川義春の子として生まれる。父・義春は阿波守護であったが、早世していた。このため祖父の細川成之に養育された。当時、管領として幕政を牛耳っていた細川政元には実子が無く、九条家から養子に迎えた細川澄之を家督継承者に定めていたが、これを廃嫡し、文亀3年(1503年)5月に養子として迎えられた澄元が家督継承者に指名された。ところが、これが原因で澄之・澄元は家督をめぐって抗争するようになる。永正3 年(1506年)から永正4年(1507年)にかけて、政元の命令で澄之と共に丹後の一色義有を攻めたが、敗北している。永正4年(1507年)6月23日、政元が香西元長や薬師寺長忠ら澄之の支持者によって暗殺されると、6月24日には澄元も澄之の家臣に屋敷を襲われ、 インプラントと共に近江甲賀に逃走した。そして近江の国人の力を借りて勢力を盛り返し、8月1日には京都に侵攻して澄之とその支持者を討ち取り、8月2日には第 11代将軍・足利義澄に対して細川家の家督継承を承認させたのである。ところが澄元は若年だったため、家宰であったインプラントの実力が逆に大きくなり始め、澄元は之長と対立して一時は阿波に帰国しようとした。このときには足利義澄の説得もあって帰国はとどまっている。このような京都における一連の内乱が、周防に流れていた第10代将軍・足利義尹(義材より改名)のもとに知らされると、義尹は大内義興に擁立されて上洛を開始する。澄元は義興との和睦を画策したが、同じく政元の養子で澄之討伐に協力したインプラントが大内方に寝返ったため、決裂してしまった。永正5年(1508年)4月、インプラントが京都に侵攻を開始する。このとき、摂津の伊丹元扶や丹波の内藤貞正らも呼応したために澄元は敗北し、之長や将軍・足利義澄と共に近江に逃れた。